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メアリースチュアートのドラマとは?美しい悲劇のクイーンとエリザベス1世との確執を家系図で紹介。

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メアリースチュアートのドラマとは?美しい悲劇のクイーンとエリザベス1世との確執を家系図で紹介。

今、BSドラマで大人気の【クイーン・メアリー】!

次々起こる予期せぬ展開とロマンティックなラブストーリーに、目が離せませんよね。

この悲劇のヒロインとされるメアリー・スチュアートの人生は、あまりにも壮絶でドラマティック。

そのため、既に19世紀からオペラの題材として用いられてきました。

失意の中で死を迫られたメアリーは、得意だった刺繍細工の中に、ある予言を遺しました。

そしてそれは後に、現実のこととなるのです

謎の多い、複雑に絡み合った家系図や登場人物を整理して、メアリー・スチュアートの生涯を見つめてみませんか。

伴侶となった夫たちが次々に凄惨な死を遂げたことから、悪女として描かれることも多い彼女ですが、女性として共感する部分が多くあるかもしれません


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メアリースチュアートの時代背景と家系図

メアリー・スチュアートの家系図

まずは、メアリーの生きた時代背景を知っておきましょう。

当時のヨーロッパの国王たちは、他国から攻め入られないために、敢えて他国の姫や大貴族の娘を妻に迎えていました。

政略結婚のため、その縁談には多くの親族や有力な貴族までが口を出すものでした。

皆、自国を守るためと言いながら、実際は自分の勢力争いや、王位相続権争いの利己的な意見が多かったのです。

そんな陰謀や画策が横行し、自分の利益のためなら犯罪も偽装も厭わないような時代でした。

しかしイタリアで開花したルネサンスという新しい風潮は、フランスへも行き届き、「女性も男性同様に勉学する権利を」など、開放感のあるものでした。

それがヨーロッパ大陸から海を隔てたイギリスへは、まだまだ届いておらず、フランスよりも更に陰謀の渦巻く暗い社会でした。

更にイギリスは、イングランドスコットランドに分かれており、それぞれの国内でもカトリック派とプロテスタント派、イギリス国教会という新教が激しく争っていました。(イギリス国教会については後述)

また、スペインは強固なカトリック国で、常々イングランドと争っていました。

フランスもカトリック国であり、スコットランドとフランス、スペインは協力関係にあったのです。

また予備知識として、ローマ法王の支配するカトリック教徒は、離婚を禁じられていたことを覚えておいてください。

それでは、登場人物を家系図と共にご紹介しましょう。

  • ヘンリー7世:イングランド王。テューダー朝を打ち立てた。(ジェームズ1世の曽祖父
  • ヘンリー8世:ヘンリー7世の息子で、次のイングランド王。王子欲しさに離婚を繰り返し、妻を6回も変えた。
  • アン・ブーリン:ヘンリー8世の愛人から妻に昇格したが、男児をもうけなかったため無実の罪で夫に処刑された。
  • エリザベス1世:ヘンリー8世とアン・ブーリンの娘。母親が罪人として処刑され、王女から庶子に降格された。後にイングランド女王となる。
  • マーガレット:イングランド王ヘンリー7世の娘で、スコットランド王のジェームズ4世と結婚する。(孫はダンリー卿)
  • ジェームズ4世:スコットランド王。
  • ジェームズ5世:ジェームズ4世の息子で、次のスコットランド王。
  • マリー・ド・ギース:ジェームズ5世の妃で、フランスの大貴族出身。メアリー・スチュアートの母。
  • メアリー・スチュアート:スコットランドの王女として生まれ、フランスの王子フランソワ2世と結婚、死別。その後マーガレットの孫であるダンリー卿と結婚し、ジェームズ6世を産む。スコットランド、イングランド、フランスの王位継承権を持つ
  • ダンリー卿:マーガレットの孫。メアリー・スチュアートの夫。美男子だが感情的で浅はかな人間。
  • ジェームズ6世:メアリー・スチュアートの息子。スコットランド王であり、イングランド王ともなる。現在のイギリス王朝の祖先。
  • フランソワ2世:フランスの王子、メアリー・スチュアートの最初の夫。体が弱く、結婚後4年で病死(16歳)。
  • アンリ2世:フランス王。娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世との婚礼祝の馬上槍試合中の事故で死亡(40歳)。
  • カトリーヌ・ド・メディチ:イタリア、フィレンツェの大貴族の姫で、アンリ2世の妻。フランソワ2世の母。

アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチと言えば…このブログをお読みいただいている皆さまは、思い出しませんか?

あの驚きの実話だった「美女と野獣」の、ぺトルスを貴公子として育て上げた夫妻でしたね。

ちょっと現実味が増してきたと思いませんか?

ヘンリー8世は、離婚したいがためにカトリックからイギリス国教会という独自に成立したキリスト教会に改宗し、ローマ法王が認めないまま離婚をしてしまいます。

そうして、愛人であったアン・ブーリンと結婚しました。

しかしアン・ブーリンはエリザベス1世を生みましたが、ローマ法王は認めない結婚でもうけた子供を、王女として認めないという考えでした。

更に、アン・ブーリンは男児をもうけなかったため、ヘンリー8世は妻に無実の罪を着せ、処刑してしまうのです。

そして王女の地位にあったエリザベス1世を庶子(庶民の子)と降格し、また次の結婚へと急ぎます。

6人の妻のうち2人を処刑してまで男児を欲したヘンリーですが、その罪が祟ったのか、男児は早いうちに命を落とし、結局エリザベス1世しか後継者がいなくなってしまったのです。

遂には病の床についたヘンリー8世ですが、とうとうエリザベス1世の地位を回復しないままこの世を去ります。

そのため、後にエリザベス1世がイギリス女王になった際には、彼女の不安定な地位によって、女王の座を奪われることを自他ともに恐れていました

その恐れから、国策としてメアリー・スチュアートの脅威をことごとく制圧する必要があったのです。

エリザベス一世と対照的に、メアリー・スチュアートの地位は確固たるものでした。

まぎれもないスコットランド王女であり、フランスのアンリ2世と結婚したことで、未亡人になってもフランス王の継承権は有していました。

また、祖母はイングランド国王ヘンリー7世の娘、マーガレット・テューダー(ヘンリー8世の姉)です。

つまり、庶子と烙印を押されたエリザベス1世とは違い、正統なイングランド王の継承権を有していたのです。

更に、フランソワ2世を亡くしてから、同じくマーガレット・テューダーの孫であるダンリー卿と結婚したため、イングランド王の継承権はより濃くなりました。

メアリー・スチュアートが自ら望んだわけでない、生まれついてのこの王家の血が、彼女に悲劇をもたらします。

メアリースチュアートのドラマ~フランスでの青春

メアリーとエリザベス1世

1542年、スコットランド王ジェームズ5世と、フランスの大貴族ギーズ公家出身のマリー・ド・ギースの娘として生まれたメアリー・スチュアート(Mary Stuart)。

彼女が生まれてすぐに父ジェームズ5世が30歳という若さで亡くなったため、なんと生後6日でスコットランド女王となりました。

叔父でイングランド王のヘンリー8世は、この機にスコットランドを手中におさめるため、自分の息子エドワード6世と赤ん坊だったメアリーを結婚させようと企みます。

メアリーの母マリー・ド・ギースは、ヘンリー8世を強く警戒し、メアリーを人目の届かないカトリック修道院へと匿います。

そこでメアリーは5歳まで天真爛漫に育ち、ヘンリー8世が病死したのを機に、母方の祖国フランスの皇太子フランソワ2世と婚約し、フランスへと渡ったのです。

生まれてから母と過ごした日も浅い上、わずか5歳にして優しい母と別れて異国へと旅立つメアリーの想いは、如何ほどだったでしょうか。

しかしカトリック教徒であった幼いメアリーは神を信じ、自分の運命に向き合ったのでした。

メアリーを迎えたフランスの宮廷では、ルネッサンスの最盛期でした。

女性教育の水準も高く、洗練され解放的な気風の中、メアリーは時期フランス王妃として大切に育てられました。

女王として相応しいたしなみや教育を受け、メアリーのたぐい稀な能力は周囲を驚かせました。

フランス語、イタリア語、スペイン語の他、ラテン語やギリシャ語も堪能となり、詩を作らせれば驚くほどの詩を生み、刺繍をさせれば素人離れした作品を作り上げたのです。

また、馬の手綱さばきも男性顔負けだったと言います。

朗らかで平等な性格なメアリーは養父であるフランス王アンリ2世、カトリーヌ・ド・メディチからも大変可愛がられました。

虚弱体質だったフランソワ2世や、その姉のエリザベート(後のスペイン王妃)とはきょうだいのように仲良く育ち、メアリーはフランソワ2世の体調を気遣い、良く看病していたといいます。

そして16歳の1558年、約束通りフランソワ2世とパリのノートルダム寺院で結婚式を挙げました。

王族に憧れたナポレオンが、後にパリのノートルダム寺院で戴冠式をしたかった理由がわかる気がしますね。

メアリーの優雅な物腰と優しい微笑み、彼女の好んだ白い色の洗練された装いは、皇太子フランソワ2世よりも人目を引き、人々に愛されました。

フランス女王はスコットランドの王位も、イングランドの王位継承権も保持している!!

これがどれほどフランスにとって誇らしいことだったでしょうか。

そしてこれがまた、イングランドをフランスのものとしたい者たちに、利用されることになっていくのです。

同じ年、イングランドではエリザベス1世が女王として即位しましたが、フランス側は「イングランドの正統な王位継承者はメアリーである」と抗議したのです。

実はイングランド内にも、エリザベス1世が庶子であることから、女王にふさわしくないと引きずり降ろそうとする豪族たちの大きな画策も渦巻いていました。

ここからエリザベス1世とメアリー・スチュアートとの静かなる確執が始まります。

更に悪いことに、フランソワ2世とメアリーが結婚した1年後、1559年にアンリ2世は事故死してしまうのです。

急きょフランソワ2世がフランス王となり、メアリーは17歳でフランス王妃となりました。

既に、早すぎるメアリーの転落の序章が始まっていきました。

アンリ2世を失ったフランスの弱体化は、他国から見て明らかであり、チャンスでした。

イングランドは、メアリーの祖国スコットランドとフランスが手を結ぶのを阻止するため、スコットランド内のプロテスタント教徒たちを焚きつけて反乱を起こし、カトリック国フランスがスコットランドへの軍事介入をしないようエディンバラ条約を結ばせました。

そしてその1年後メアリーが18歳の時、なんと虚弱だったフランソワ2世が病死してしまったのです。

二人は子供の頃から一緒に育った、仲の良い夫婦でした。

メアリーは18日間に渡り、熱心に看病をしましたが、16歳の夫は天に召されてしまったのです。

悲しみにくれたメアリーは、亡き夫のために詩を遺しました。

森や野のどこにいようとも 明け方や夕暮れのどんな時だろうとも
  
心は絶え間のない悲しみに沈み 眠ろうとする枕元に空しさが押し寄せる 
 
一人ベッドにいても あの人の温もりを感じるのです

働く時も休む時も、いつもそばにあなたを感じています

悲しみに暮れるメアリーの心が感じられます。

しかし更に悲しみがメアリーを襲います。

夫の死の半年後、スコットランドでメアリーの身を案じていた母である、王妃マリー・ド・ギースも、天へと召されてしまったのです。

もはやスコットランドには、王も王妃もいなくなってしまいました。

メアリーは、「自分が帰らねば」と決心し、心から愛したフランス、黄金時代を過ごした第二の故郷を離れ、薄暗いブリテン島へと戻りました。

しかしそこは、陰謀と策略、犯罪と噂話の蔓延する世界でした。


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転落の人生と、刺繍の中に残した予言

メアリーの刺繍

スコットランドで王位を継承したメアリーは、宗教間の争いを避けるため、自身はカトリックでありましたが、重臣はプロテスタントのままにするなど、宗教の選択には寛容な政策をとりました。

メアリーは、フランス育ちの気品と豊かな感情表現、そしてその優しさ故に、利用されていく運命にあります。

未亡人であるメアリーに、他国の王からいくつも政略結婚の話がもちかけられます。

しかしスコットランドの領土を守ると言う政治的観点から、エリザベス1世やカトリーヌ・ド・メディチに意見され、かわりにエリザベス1世が寵愛した重臣をメアリーと一緒にさせようとしてきたのです。

メアリーはその政略的な翻弄に嫌気がさし、それらの話を全て断わり、自分の人生は自分で決定したいと思うようになります。

そしてメアリーがスコットランドに帰ってから4年後に出会った、自分のルーツであるステュアート家の従弟ダーンリー卿と恋に落ちたのです。

4歳年下のダーンリーは、金髪で見目良く、その甘い愛の言葉は懐かしいフランスを思わせました。

愛に地位も何も関係ない、ただ一人の女性として愛したい…そういう女性だったメアリーは、23歳でダーンリー卿と結婚し、彼を評価していなかった世界を驚かせました。

しかもメアリーはダーンリー卿と結婚する際、王族にしか与えられない地位を与え、王位継承権も与えたのでした。

愛のために、自分の捧げられるものを全て捧げようというメアリーの献身的な愛が観られます。

しかしダーンリー卿もまた、メアリーの地位を欲しがっただけの男性だったのです。

傲慢で感情的、浅はかなダーンリー卿との関係は、半年で冷めてしまったといいます。

最初の夫を亡くし、母をも亡くし、愛するフランスを置いてきたメアリーは、ただ心からの愛を求めただけだったのです。

しかし、二番目の夫もしかり、重用していた周辺の貴族たちも隙を見てはメアリーに反乱を起こします。

自分を権力争いのために利用することしか考えない…そんな彼女の傷心は深く、それを慰めてくれたのは、イタリア人音楽家で秘書を務めていたダヴィッド・リッツィオでした。

有能で繊細な気遣いをするダヴィッド・リッツィオは、メアリーを慰めてくれる、数少ない信頼のおける重臣でした。

しかし、メアリーを陥れようとする貴族たちは、メアリーとダヴィッド・リッツィオが愛人関係にあると、ダーンリー卿にけしかけます。

浅はかなダーンリー卿を簡単に丸め込み、彼らはなんとメアリーの食事をとっているテーブルの目の前で、ダヴィッド・リッツィオを殺害してしまったのです。

更に、ダーンリー卿はメアリーにも刃を向けたと言います。

メアリーは悲痛な悲しみの中、女王の威厳と共にダーンリー卿に語り掛けました。

「私のお腹には、あなたの子供が宿っているのよ」

冷静さを取り戻したダーンリー卿はその場を引きましたが、メアリーはその後、あまりのショックに一時流産しかけますが、なんとか取りとめます。

そして無事にジェームズ6世を出産したのです。

その子は後にスコットランド王兼イングランド王となる人物であり、現在のイギリス王室の祖先にあたります。

子供が生まれはしても、ダヴィッド・リッツィオと自分に刃を向けたダーンリー卿を再び愛せるはずがありません。

二人の仲は冷え切ったままでした。

そして絶え間なく続く反乱の争いと陰謀…メアリーは疲れ切り、そして愛を渇望していました。

そして徐々に、メアリーに忠誠を誓い、何度も反乱を討伐してきた軍人、ボスウェル伯に心惹かれていったのです。

彼は陰謀好きで卑劣な貴族たちを嫌っていました。

メアリーは彼を頼りにし、徐々に愛してしまったのです。彼には妻がいたというのに…。

そしてプロテスタント教徒だったボスウェル伯もまた、メアリーとの結婚を意識したのでしょう、1543年に妻と離婚をしています。

1567年、ダーンリー卿は病気の養生のためにエディンバラのカーク・オ・フィールド教会で過ごしていました。

そしてある日、メアリーが彼の元へ訪れると、なんとそこでダーンリー卿の過ごしていた部屋が爆破され、殺害されているのを発見したのです。

陰謀の恐れを感じたメアリーは、ボスウェル伯と共に逃げました。

自分も殺害されるかもしれないという恐れと、自分が夫殺しの罪を着せられるという二つの恐れがあったためです。

しかしここでは、ボスウェル伯がダーンリー卿殺害のを問われ、後に無罪となりました。

ボスウェル伯ほどの経験豊富な軍人が、こんなにも目立つ方法で殺害するだろうか、という疑問が大きかったためです。

それでも消えない、「メアリーとボスウェル伯がダーンリー卿を殺害したのではないか」という噂。

噂話の持つ力の強い時代でした。

しかし何度も夫を亡くした傷心のメアリーと、彼女を逞しく守るボスウェル伯の間の愛は抑えきれませんでした。

二人はその3か月後、カトリック・プロテスタント双方から凶弾されながらも、その反対を押し切って結婚したのです。

しかしこの結婚のせいで、更に二人へのダーンリー卿殺害の嫌疑は強まっていきました。

噂が噂を呼び、メアリーの信頼は完全に地に落ちたのです。

メアリーが全ての愛をかけて彼と結婚したことがわかる詩が残っています。

あの方のために 私は名誉を諦めました

あの方のために 私は権勢と良心を差し出しました

あの方のために 私は親族と友人を捨てたのです

1567年に反ボスウェル派の貴族たちが反乱を起こした際、とうとう二人は引き裂かれ、メアリーは捉えられました。

そして廃位王子ジェームズ6世への王位継承権に同意させられ、片田舎のロッホ・レーヴェン城に幽閉されました。

彼女からスコットランド女王の座が消えた時でした。

そしてボスウェル伯は逃げ延びた先で兵を集め、反撃を試みますが失敗し、小船でノルウェーまで逃げ延び、デンマーク軍に捕らえられて投獄され、命を落としました。

幽閉から1年後、メアリーは協力者によって城から逃亡し、最後の反撃を起こしますが破れ、万策尽きてしまいます。

そしてとうとう、イングランドの従姉であるエリザベス1世に助けを求めたのです。

エリザベス1世は、自分よりも正統なイングランド王位継承権を持つメアリーをイングランドに受け入れることを、危険視していました。

しかし、哀れな従妹を見捨てて処刑させるわけにもいきません。

以前は手紙上のやり取りだけではありましたが、「お姉さま」「妹よ」と書き綴った仲です。

ここでは国民の手前、慈悲深い寛容な女王としての振る舞いをすべき時だ、と考えたエリザベス1世は、メアリーをイングランドに受け入れました。

メアリーが25歳の時でした。

しかし、イングランド内にもエリザベス1世を女王から引き下ろそうとする大貴族たちがいる以上、メアリーが危険人物となることはわかりきっていました。

メアリー自身がイングランド女王の座を望んでいなかったとしても、周りの貴族に利用される可能性がある以上、彼女を自由に生活させるわけにはいきません。

更に、メアリーはカトリック教徒です。

イングランド国内のカトリック教徒たちの反乱の、危険なトリガーになることも考えられました。

エリザベス1世はただイングランド国のために、結婚もせず、国のために自分の人生を捧げようとした女性でした。

国よりも一人の女性としての愛を選択するメアリーとは、対照的ですね。

エリザベス1世は、それから18年間、メアリーを軟禁し、各地を転々とさせました。

しかし、軟禁状態とは思えない程、引退した老婦人のように自由に静かな生活を送らせたのです。

それはエリザベス1世の慈愛でした。

その18年間、メアリーは自分がスコットランド女王として権利を回復できるよう、協力してほしい旨をエリザベス1世に要請しますが、エリザベス1世はダーンリー殺害事件の嫌疑を理由に持ち出し、取り合いません。

メアリーは徐々に希望の光を失っていきました。

来る日も来る日も、部屋の中で刺繍をする日々です。

時にはエリザベス1世への恨みを刺繍にこめることもありました。

そしてスペイン王フェリペ2世には、自分の死後の王位について、ジェームズ6世について度々手紙を書いています。

フェリペ2世の妻エリザベートは、メアリーの最初の夫フランソワ2世の姉で、幼い頃からいつも一緒に遊んだ姉妹のようであり、親友であったのです。

スペインの無敵艦隊によるイングランドの攻撃も、新教国イングランドの制圧という意味がありました。

宗教戦争が吹き荒れるヨーロッパでは、エリザベス1世暗殺の動きが出てきており、イングランド議会は「女王に対する陰謀に参加したものは処刑する」という法律を作り上げます。

そしてとうとう、メアリーは度々他の貴族と共にエリザベス廃位の陰謀に関わったとされ、その動かぬ証拠を突き付けられてしまったのです。

それもまた、陰謀による嘘の証拠だったとも言われています。

しかしもはや、イギリス内の平穏を守るためには、イングランドの正統な王位継承権を持つメアリーを生かしておくことはできなくなっていたのです

何度も何度もメアリーの処刑の許可を迫られ、その度にかわしてきたエリザベス1世でしたが、とうとう1587年、18年間渋ってきた書類にサインをし、メアリーの死刑が確定しました。

メアリーは自分のドレスに予言ともいえる刺繍をフランス語で施しました。

En ma fin git mon commencement

私の終わりに 私の始まりあり

そしてそこには、自分の母親マリー・ド・ギース方の紋章である不死鳥の刺繍が添えられていたのです。

断頭台へと向かうメアリーは、少しも震えることなく凛と前を向き、スコットランド女王として誇り高く進み、そして断頭台の露と消えました。

倒れたメアリーのドレスの裾からは、可愛がっていた仔犬が飛び出してきたと言います。

44歳の彼女が震えることなく断頭台へと歩けたのは、その仔犬に勇気をもらってのことだったのかもしれません。

そう考えると、今まで周囲に見せてきた穏やかな微笑みの下に、どれほど不安と悲しみを抱いてきたのかと思わされます。

それを唯一魅せることができたのが、心から信じた夫たちだけだったのかもしれません。

メアリーは、一つ一つの恋に真剣で、その度に自分の持てる全てを賭けてきただけだったのです。

幼い頃から王位を狙う者たちや、エリザベス1世の王位継承を不服とする野心家の貴族たちに利用されたメアリーと、そんな猛者共から国を守るために必死に生きたエリザベス1世の、哀しい運命でした。

そして…上の刺繍で綴られた予言ともいえる言葉私の終わりに 私の始まりあり」は、その後現実となります

生涯結婚をせず、子供のいなかったエリザベス1世の跡を継いだのは、メアリーの息子ジェームズ6世であり、彼はスコットランドとイギリス両方の王となり、両国を一つに結んだのです。

ブリテン島に住む人々の悲願であった、連合王国が作られたのです。

そしてその子孫は脈々と続き…現代のイギリス王室へと繋がっているのです。

現代のイギリス王室の全てが、メアリーにつながっている…それを彼女は、知っていたのかもしれません。


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