
フランスのルーヴル美術館の中で、2番目に大きな絵画【ナポレオンの戴冠式】。
ナポレオンが、足元に膝まづく妻のジョセフィーヌに冠を授ける美しい瞬間が描かれている有名な絵ですね。
この作品には、人物や王冠にまつわる、当時の様々な歴史的思惑が隠されているのです。
また、作者によってもう一枚同じ絵が描かれ、ヴェルサイユ宮殿に保管されていることをご存知でしょうか。
しかもこの2枚には、敢えて作られた違いがあるのです。
詳しく読み取って、絵画の面白さをご覧ください!
ナポレオンと作者ジャック・ルイ・ダヴィッド
この絵画を理解するために、まずはナポレオンと画家ダヴィッドの成り上がりと失脚についてご説明しましょう。
ナポレオン・ボナパルト
1769年、ナポレオン・ボナパルトはコルシカ島の下級貴族として生まれました。
父が38歳の若さで亡くなったため、母レティツィアが女手一つで苦労して家族を養ってきたのです。
彼の血筋はイタリアのトスカーナ州出身の貴族で、「ナポレーネ・ブォーナパルテ」というイタリア名が本名でした。
しかし、コルシカ独立戦争でフランス側に立ったことで島を追われ、マルセイユに移住したことでさらに貧しい暮らしを余儀なくされます。
ナポレオンはフランスで一生暮らすと決意をし、名前をフランス名に改名しました。
パリの陸軍士官学校で大砲を扱う学科を選んだナポレオンは、通常4年かかるところをわずか11カ月で卒業し、みるみるその優秀な戦略で昇進を重ねます。
しかし幼少の頃の貧困生活と、士官学校でのコルシカ訛りゆえの虐めゆえか、彼の出世欲はとどまるところを知らず、兄とも仲違いをするようになります。
そして、母レティツィアの望んだ婚約者との縁談を破談にし、時の権力者ポール・バラスの愛人であった未亡人貴族ジョセフィーヌと結婚したのです。
社交界の華と呼ばれた、遮光的で浪費家で浮気性の6歳年上のジョセフィーヌとの結婚を、母レティツィアは良く思っていませんでした。
ましてや貧しい中でもアイデンティティを貫いて暮らしてきたレティツィアにとって、ナポレオンがフランス皇帝になるなどということには反対し、心配していました。
そのため、ナポレオンの出世と共に他の家族が裕福となり、贅沢な暮らしをする中、レティツィアだけは贅沢をせず貯金をして暮らしました。
彼女の予感が的中したのでしょうか、後にナポレオンが失脚した際、レティツィアはそれまで蓄えてきた資金を投げうって、ナポレオンの元部下や家族を援助したのです。
慈愛に満ちた、賢く清貧な母でした。
ナポレオンは失脚中の1821年、セントヘレナの地で胃がんにより亡くなった(51歳)とされていますが、他にもヒ素で暗殺されたなどと様々な説が憶測されています。
ジョセフ・ルイ・ダヴィッド
1748年にパリの商人の子として生まれました。
ロココ絵画の大家であるフランソワ・ブーシェの親戚であり、ジョセフ・マリー・ヴィアンの弟子として長らく絵画の修行をしていました。
父親が9歳の時に決闘でなくなっており、貧しい暮らしをしていましたが、26歳の時に遅まきながら【アンティオコスとストラトニケ】の作品でローマ賞を獲得し、国費でイタリア留学をすることになったのです。
イタリアでのでの5年間の修行を経て、18世紀のフランスロココ調から、新古典主義的な硬質な画風となっていきます。
フランス革命の際、バスティーユ牢獄襲撃事件に関わったこともあり、政治的活動をしていたがゆえに、一時投獄された過去があります。
そのように政治的関心の強かったダヴィッドは、フランスを愛し、誉高い国に再建したいという革命的思想があったと思われます。
そのためナポレオンがヨーロッパを統一する勢いで革命的な戦いを成すのを見て、ダヴィッドはナポレオンを敬愛し、彼のために力を注ぐことに決めたのです。
ダヴィッドはナポレオンの政治的影響を、絵画で広く浸透させようとしたのです。
そうして、時には彼の行動を誇張し、プロバガンダ的要素を濃くした絵を描き続けます。
ナポレオンの政治的狙いを良く理解し、芸術の才能も素晴らしかったため、彼はナポレオンの庇護をうけ、お抱えの主席画家に任命されるまでになりました。
しかし後にナポレオンが失脚すると、ダヴィッドも同じく失脚し、ブリュッセルへ亡命することとなります。
絵画【ナポレオンの戴冠式】に込められた意味
【ナポレオンの戴冠式】は、画家ダヴィッドによって3年の歳月をかけて1807年に完成された油彩画で、高さ6m、幅10mにもなります。
パリのノートルダム寺院で執り行われた、ナポレオンがフランスの皇帝に就任する戴冠式。
2万人もの人が招待され、その内の200名程がこの絵の中に描かれています。
そう、ここには実際に存在した人物たちが、まるで等身大の肖像画のように残されているのです。
さて、当時キリスト教国家であったヨーロッパの国々は、全てを統べる頂点に神と同格とされるローマ法王がおり、その下に神に選ばれし各国の王たちが、そしてその下に皇帝が位置していました。
戴冠式は位の高い存在から、即位の承認の意味として、冠を授かる儀式です。
ナポレオンはフランス皇帝に就任するにあたり、その上の位であるローマ法王から冠を授かるのが習わしでした。
しかしナポレオンは、革命家です。
古いしきたりに習って自分がローマ法王ピウス7世のいるバチカンに赴くのではなく、なんとローマ法王をパリに呼び寄せたのです。
そこには、ナポレオンが自らを「フランス人民の皇帝」であることを、民衆に示威する意図がありました。
ここで、あれ?と思う点がありますね。
【ナポレオンの戴冠式】というタイトルのわりに、描かれているたシーンはナポレオンが妻ジョセフィーヌに冠を授ける瞬間なのです。
ナポレオンは既に、自分の頭に冠を戴いています。
実はナポレオン、こともあろうか、わざわざパリまで呼び出したローマ法王を飾り物のように席に座らせたまま、自分で自分に王冠をかぶせたのです!
何という傲慢で恐れ知らずな態度でしょう。
しかしナポレオンお抱えの主席画家ダヴィッドは、英雄ナポレオンが皇帝に就任した栄光を輝かしく残すために、彼が自分で冠をかぶる瞬間を描こうとしました。
その下絵は上の画像の通り、屈辱に耐えるかのように背を丸めて座るローマ法王の前に、ナポレオンは背を向けて立ちはだかり、片手で冠を戴き、もう片方の手には剣を携えています。
そうして自分の力で王位を勝ち取った英雄ナポレオンの姿を、世に遺そうとしたのです。
しかしそれが後世に残すにはあまりにも挑発的だと妻ジョセフィーヌが進言し、ナポレオンが冠を戴いた後に引き続き行われた、皇妃ジョセフィーヌへの戴冠の瞬間に描き直されました。
本物をご覧になる機会がありましたら、ナポレオンの頭部に残る、修正の跡をご覧ください。
そして申し訳程度に、ローマ法王の右手がジョセフィーヌを祝福する様子が加えられたのです。
この右手の形は、上の画像のように天使が聖母マリアに受胎告知をし、祝福を与えた際の形と同じものです。
このように描かれ直したおかげで、この絵画は挑発的に神をも凌ぐ君臨を意味するものではなく、皇妃ジョセフィーヌに焦点があたり、優美でロマンティックな雰囲気となり、大変評判を得ることとなりました。
ダヴィッドによって10代の少女のように若く美しく描かれたジョセフィーヌは、貞淑な妻のイメージを与え、人々により一層好まれたのです。
そのため、この絵画はしばしば【ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠】とも呼ばれます。
上で書いたように、ナポレオンの清貧で堅実な母親レティツィアは、彼が皇帝になることに反対でした。
このように急性な進撃と、傲慢な略奪の後に、どんな仕打ちが待っているか…母親としての先見の明、そして憂いがあったのです。
そのため、彼女はこの式典に参加しませんでした。
そこでナポレオンは、ダヴィッドに母レティツィアを、絵画の中央上段、ローマ法王よりもずっと目立つ場所に、華やかな衣装を纏った姿で描かせました。
また、当時は既に亡くなっていた兄シャルルも、絵画には描かれています。
ナポレオンの家族を讃える最高の絵画として、彼も大変気に入っていたということです。
(作者であるダヴィッドも、中央の観客席に描かれています。)
豪華絢爛で美しい歴史的瞬間、と褒めたたえられたこの作品ですが、実は人々に披露されてから6カ月後、ナポレオンはジョセフィーヌと離婚してしまい、この絵は人々の前に公開されなくなりました。
ジョセフィーヌとの間には子どもが恵まれず、ナポレオンは何としてもフランス皇帝の後継者を実子にしたいと考えたのです。
そして今よりも更に高貴な血筋を得るため、オーストリアハプスブルク家の皇女マリ・ルイーズ(19歳)と再婚したのです。
(しかし、二人の間に難産の末に生まれた息子ナポレオン2世は、結核により21歳の若さで亡くなり、直系の子孫は途絶えてしまいました。)
実はジョセフィーヌは、この日が来ることを予感し、恐れていました。
そのため、皇帝ナポレオンの皇妃は自分であるという証を人々の記憶に残すためにも、【ナポレオンの戴冠式】を描き直すよう進言したとも言われています。
しかし、その根回しは儚く破られ、離婚を言い渡されてしまいました。
ジョセフィーヌはその言葉を聞いて、ショックのあまり気絶してしまったと言います。
こうして人目に触れることのできなくなった絵画【ナポレオンの戴冠式】は、作者であるダヴィッドによって保管されることになりました。
後にナポレオンの失脚に伴うダヴィッドの失脚後は王立美術館に移され、その後ヴェルサイユ宮殿を経て、現在のルーブル美術館に収蔵されることになったのです。
ちなみに、以前コロンナ宮殿(映画【ローマの休日】で最後の舞台として使用された)に打ち込まれた大砲の玉のお話をしましたね。
それはナポレオンの甥であるナポレオン三世が、部下に指示して打たせたものです。
1849年のことでしたが、今でも大砲の玉はそのままにされているのです。
ヴェルサイユ宮殿収蔵のもう一枚の絵画
【ナポレオンの戴冠式】が公開された直後の1808年、ダヴィッドはアメリカの実業家から同じ絵を同じサイズで描くよう注文を受けます。
当時、人気のあった絵を複数書くことは良くありましたが、必ず1か所以上は相違点を作ることが決まりでした。
彼がブリュッセル亡命中の1822年に14年かけて完成させたもう1枚の【ナポレオンの戴冠式】は、現在ヴェルサイユ宮殿の「戴冠の間」に保管されています。
さて、その相違点がお分かりになりますでしょうか。
一つ目
左側にいる3人の女性(ナポレオンの3人の妹たち)のうち、一人だけピンク色のドレスで描かれています。
1作目では3人とも白いドレスでしたね。
このピンクのドレスを身に付けて描かれた女性は、ナポレオンの2番目の妹「ポーリーヌ」です。
彼女は美しい三姉妹の中でも特に美しく、奔放でわがままだったこともあり、最も注目される女性でした。
そしてナポレオンが最も可愛がった妹でもありました。
もう一つの噂として、実はダヴィッドが密かに想いを寄せていた女性だった…とも言われています。
二つ目
ナポレオンを最後まで見捨てず、助けた母親レティツィアをご覧下さい。
二作目の方では、粛々としたヴェールをかぶっていますね。
その頃既に命を落としていた我が子ナポレオンを悼む、存命の母親の想いが表わされているのかもしれません。
他にも参列している人々の顔や髪型が異なるものもありますが、重要な違いは以上の二点といえるでしょう。
いかがでしたか?
この歴史的に重要な絵画に込められた、様々な想いを楽しんでいただけましたでしょうか。
これからも美術館巡りが楽しくなるような記事を書いていきますね!