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パルテノン神殿の意図と歴史を解説!世界遺産に隠された柱の黄金比と日本との関係とは。

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パルテノン神殿の意図と歴史を解説!世界遺産に隠された柱の黄金比と日本との関係とは。

ギリシャにある白く美しいパルテノン神殿は、誰もが憧れる建造物ですね。

全てが大理石で作られ、神々しい威厳を今もなお放っています。

約2500年前のこの建造物は、何のために作られたのでしょうか。

そして、実は日本とも共通点があるのをご存知でしょうか。

ここではパルテノン神殿建設の意図や歴史、そして日本との深い関係についてご紹介します。

ギリシャ旅行をもっと楽しめることでしょう。


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パルテノン神殿の意図とは

上の動画では、建設当時の色彩豊かなパルテノン神殿の再現画像をご覧いただけます。

パルテノン神殿は古代ギリシャの最も重要な遺跡であり、1987年に世界遺産にも登録されています。

古代アテネの黄金時代であった紀元前447年~438年に、ペルシア戦争の勝利を記念して建築されました

当時の偉大な建築家イクティノスとカリクラテスが建築を、そして神殿装飾彫刻と総監督をペイディアスが担いました。

神殿に用いられたのは、北東5kmのペンテリコン山の採石場で切り出されたペンテリコ大理石

ギリシャ特産の、その白く透き通るようなきめの細かい材質は、最も高価な材質でありました。

神殿を作るために彫り出された大理石は、13400ピースだったといいいます。

ギリシャには多くの神々を信仰していましたが、パルテノン神殿は女神アテナを祀るための神殿として作られました。

アテナは、知恵、芸術、工芸、守りのための戦略を司るギリシャ神話の女神です。

アテナイを初めとする数多くのギリシャの城塞都市では、女神アテナを守護女神として崇拝していました。

(アテナとアルテミス、ヘスティアーはギリシャ神話の三大処女神といわれています。)

「パルテノン」の名前は、処女宮という意味の「パルテノス(Parthènos)」に由来します。

処女神アテナのための宮殿というわけですね。

パルテノン神殿はアテナイのアクロポリスと呼ばれる小高い丘の上に作られました。

標高156mのアクロポリスの丘の上に建つパルテノン神殿は、街のどこからでも眺めることができ、まさに崇拝の眼差しの先にある神殿だったのです。

動画でおわかりのように、当時はパルテノン神殿の中には、金と象牙で作られた高さ12mの勝利の女神アテナ像が安置されていました。

その像に用いられた金の量は、なんと1140㎏

ペルシア戦争で勝利をおさめ、左手に掲げていた盾を床におろし、右掌には勝利の女神であるニケが乗っています。

神々しいアテナの像ですが、政治の中心がコンスタンティノープル(現イスタンブール)へ移った際に当地へ移動された後、歴史の混乱の中で破壊されてしまいました。

パルテノン神殿建設の意図として面白いのが、神殿が東向きに建設された点です。

古代ギリシャの時代は東に領土拡大することに関心を持っていたからなのです。

そのため、守護神アテナ神殿を東向きに建て、東への良い流れを祈りました。

現にアレキサンダー三世は東に遠征し、ペルシャと戦い、パキスタン、インドにも行きました。

なぜ東だったのでしょうか?

それは、当時地球が丸いとは思われておらず、人々は西にあるヨーロッパの先は崖になっており、そこで世界は終わっていると思っていたのです。

また、ギリシャ人たちはヨーロッパの人々を野蛮人と見なしていたため、世界の終わりである西でなく、東に目を向けていたと言われています。


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パルテノン神殿の破壊

エルギン・まーぶる

神々しいまでに美しい建造物であるパルテノン神殿ですが、長い歴史の変遷の中で、その支配者たちによって破壊されていきました。

もともと女神アテナのための神殿でしたが、4世紀のローマ帝国の支配後はキリスト教の大聖堂として利用されました。

その際に内部の装飾や壁の一部が壊され通路となり、東の門は壁で塞がれ増築されるなど、改築されていったのです。

その後、1456年のオスマン帝国の支配下では、イスラム教のモスクとされました

そして、この神殿を武器や弾薬庫としても使うようになりました。

スルターン(皇帝)は敵がこの神殿をリスペクトするであろうと考え、一番安全な場所に選んだのです。

しかし、祈りの場に戦闘用の武器などを納めたことが、悲劇を招くこととなります。

1687年にヴェネツィア共和国との大トルコ戦争が起こり、オスマン帝国の武器庫であった神殿は、ヴェネツィア軍の大砲によって大爆発を起こし、屋根や内部の大部分が吹き飛んでしまったのです。

ヴェネツィア海軍の強さがわかる、もう一つの戦争…それは第4回十字軍によるイスタンブールの陥落です。

こうして壊滅的な被害を受けた神殿ですが、更に被害が進むできごとが起こります。

1799~1802年まで、オスマン帝国コンスタンティノープルにイギリス公使として駐在したエルギン卿は、かねてから古代ギリシャ文明に興味を持っていました。

彼は、神殿に遺されたわずかな遺跡や装飾彫刻などの美術品を収集し、本国イギリスへと運び出してしまったのです。

それは後にイギリス大英帝国政府が買い上げ、1910年からロンドンの大英博物館で展示されています。

このエルギンによって盗まれたともいえる、イギリスに渡った大理石の彫刻たちは、「エルギン・マーブル」と呼ばれているのです。

実は、長い歴史の中でこうした美術品は、戦いに勝利した者の戦利品として持ち去られることが常でした。

そのため、ギリシャの遺産はロンドンの大英博物館だけではなく、パリのルーブル美術館、コペンバーゲンなどにも保存されています。

1983年移行、ギリシャ政府は大英博物館に彫刻の返還を求め、一部は返還の運びとなりました。

しかしまだ全てではないため、今でも話し合いが進められています。

現在、ギリシャ彫刻の所有点数が最も多いのは、2009年に開館したアクロポリス美術館です。

パルテノン神殿にもわずかながら彫刻は残されていますが、外気の汚染や風化から守るために、ほとんどが室内の美術館に納められているのです。

アクロポリス美術館はアクロポリスの丘のふもとにあり、そこには現在ギリシャの所有する全てのパルテノン神殿の美術品が納められています。

ギリシャでは2004年にオリンピックが開催され、その際の収益やユネスコからの寄付金により、パルテノン神殿の修復工事を進めています。

修復に用いられているのは当時と同じペンテリコ大理石で、そこへ最新技術を加え、今でも再建を進めているのです。

日本との関係

エンタシス方式の柱

パルテノン神殿の最も特徴的な作りといえば、滑らかな線の美しいドーリア式の柱でしょう。

神殿の前面に8本、側面に17本、合計46本の外柱によって、長方形の祭壇が囲まれています。

外側の円柱は直径1.9m、高さ10.4mもあり、四隅の円柱は若干大きくなっています。

ではここで、当時の驚くべき建築技術と高度な知識をご紹介しましょう。

なんと、直線を一か所も使っていない!

そうなんです、真っ直ぐに見える神殿の建築ですが、どれをとっても僅かに曲線を描いているのです!

祭壇は中央部がわずかに盛り上がり、周りを囲んでいる柱も中央がわずかに膨らみ、上部が細くなったエンタシス法が用いられているのです。

また、垂直に建っているように見える柱も、実は内側に傾いて建っているのです。

こうした工夫により、直線で作るよりもずっとなめらかで美しい直線に見え、また重厚感が柔らかく映るのです。

女神アテナのための神殿とする、当時の美意識が感じられますね。

そしてもう一つ、当時から建築に利用された特別なものがあります。それは…

黄金比!!

1:1.618という比率を用いることで、視覚的に最も調和が取れ、安定した美観を与えることを当時から知っていたのです。

パルテノン神殿は各要素のいずれにも黄金比を含んでいるのです。

それに対し、白銀比というものが日本にあるのをご存知でしょうか。

日本では昔から、力学的に丈夫な建築方式として、1:1.414を取り入れていました。

奈良時代建立の法隆寺や五重塔には、既に用いられていました。

そして、なんと法隆寺の柱が、パルテノン神殿と同様に中央が膨らみ、上部が細くなったエンタシス方式の柱となっているのです!

遥か昔にどのように日本に伝わったのか…それとも、人類が必然的に見つけ出したものなのか…いずれにしても、ロマンが広がりますね。

ギリシャの美しい空の下、不完全な姿でもなお美しい威厳を保つパルテノン神殿を、是非一度ご覧になってみてください!


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